comeback

この時の井上さんに引かれた温かかった手のぬくもりは、今なおこの私の手の中に残っている。私の生涯の門出は、盲目の井上さんによってひらかれたのであった。

=== 早川徳次著「私の考え方」より ===

幼少期に出会った、目の不自由なおばあさん
仕事ができる環境を与えてもらった、これが後の人生を拓いた
その恩を返したいという想いを生涯抱き続けた

シャープ創業者 早川徳次が幼少期の体験で得た「働けること」への喜びは「報恩感謝」の心となり、障がい者福祉への強い信念となった。

「何かを施す慈善より、障がい者自身で仕事をし、自助自立できる環境を作ることが福祉につながる」



その早川徳次の熱い想いに、不遇の戦盲者たちはひとすじの希望の光を見いだした。
そして死に物狂いで仕事に打ち込み、その誠意と情熱で自ら自立する道を切り拓いていった。

早川徳次とこの失明者たちの熱意と努力は、障がい者のための事業と雇用を創造し、世の中に貢献した。


そして今なお、これら先人たちの心はシャープ特選工業に脈々と受け継がれている。
シャープが歩んできた障がい者雇用の軌跡



早川徳次とシャープの誕生

つらい日々

シャープの創業者早川徳次は、1893(明治26)年11月3日、東京市日本橋(現:東京都中央区)で生まれました。
親御さんが病弱で1歳11ヵ月で養子に出されました。ところが養子先では、継母に辛く当たられ、小学校も2年足らずでやめさせられ、夜中まで内職の手伝いを強いられるという悲惨な日々を送っていました。




生涯の門出

そんな徳次を不憫に思っていたお婆さんが近所にいました。そのお婆さんは井上さんといって目が不自由でした。井上さんは養父母に「学校にもやらず内職させるなら仕事をおぼえさせなさい」と言い、徳次に丁稚奉公先を紹介してくれました。そして、杖をつきながら徳次の手を引いて、その奉公先へ連れて行ってくれたのです。

1901(明治34)年9月、徳次はまだ8歳。これが生涯を決定づける門出となったのです。







独立開業

徳次の奉公先は錺屋(金属細工業)の職人でした。そこで厳しい修行を積みました。とても忙しい毎日でしたが、そんな中でも徳次は常に独自の知恵と工夫を巡らせていました。

そして、穴がいらないベルトのバックル「徳尾錠」を発明。これを機に独立して、金属加工業を開業したのです。
1912(大正元)年9月15日20歳での巣立ちです。
この時をシャープ創業の時として刻んでいます。




徳次は、独立開業後も寝食を忘れて懸命に働きました。
そして1915(大正4)年に金属製の「早川式繰出鉛筆」を発明し製造販売をはじめました。後にこれを「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」と銘打ち、海外への輸出も広げていきました。
このシャープペンシルが今の「シャープ」という社名の由来です。



関東大震災

シャープペンシル事業は順風満帆に大きく拡大して従業員も200名を越えました。
そんな最中、1923(大正12)年9月1日、東京を関東大震災が襲いました。徳次は、工場と多くの従業員を失い、そしてなによりも大切な妻と二人の子供を亡くしたのです。
絶望のどん底にさらに追い打ちをかけるかのように、ある大阪の取引先から借金返済を厳しく迫られました。しかし震災ですべてを失い、徳次には返す金などありません。仕方なくシャープペンシルの特許と事業をその会社に譲渡することにしたのです。そして、その事業譲渡先への技術指導のため身ひとつで大阪へ移りました。



再起

震災からちょうど1年後の1924(大正13)年9月1日、シャープペンシル特許の譲渡先に対しての技術指導を終えました。
そして徳次は、この大阪の地での再起を決意し、「早川金属工業研究所」を立ち上げて金属加工業をはじめました。「第二の創業」です。

場所は今の大阪市阿倍野区西田辺駅付近。その後シャープ本社として90年余りの間この地と共に発展をしてきました。


大阪での事業再開からわずか1年後の1925(大正14)年4月、日本初のラジオ受信機の開発に成功。このラジオで事業を大きく拡大しました。シャープがエレクトロニクス企業となる第一歩です。その後も次々と業界初となる新しい商品を世に送り出し、現在に至っています。






障がい者雇用の始まり

岩橋武夫氏との出逢い

それは1940年代、第二次世界大戦の最中でした。ある日、シャープの創業者早川徳次のもとに、日本ライトハウス創設者の岩橋武夫氏から、ある依頼の手紙がよせられました。徳次は、岩橋武夫氏が1937(昭和12)年に盲聾の教育者ヘレンケラー女史を初めて日本に呼び、全国での講演会を実施したという新聞記事を読んだことがありました。しかし、岩橋武夫氏とはまったく面識がありませんでした。

それでも徳次は岩橋武夫氏と会うまでもなく、二つ返事でその依頼を受けることにしたのです。その依頼とは「戦争で目を失った失明軍人に対して電気についての講義と実地訓練をして欲しい」ということだったのです。
そして徳次は、心を込めて熱の入った講演と講習指導を実施しました。講習に参加した失明軍人達は真剣に耳を澄まして話を聞き、納得いくまで実習に打ち込んだと言われています。目を失った者たちは生きていくための光をこの講習に求めていたからです。
そのとき徳次は、幼い時に奉公先に手を引いてくれた盲目の老婆の手のぬくもりを思い出していました。つらい日々から救いだしてもらい人生を拓くきっかけをつくってくれたこの老婆に一生かけて恩返しをしようと心に決めていました。しかし老婆は大震災で行方知らずとなり、恩返しを果せず途方に暮れていました。そこで「老婆から受けた恩を世の中の盲人へ返していこう」と強い想いがこみ上げていたのです。


早川電機分工場の開設

後日また岩橋武夫氏が徳次を訪ねてきました。そして今度は「訓練をしてきた失明軍人のためにライトハウス内に実際の職場を作りたい。そこで器具、設備の提供をお願いしたい。加えて技術指導もして欲しい」と要請したのです。これにも徳次は快諾しました。
そして、1944(昭和19)年、その失明者たちを雇い入れ、彼らが作業する場所を早川電機工業(現在のシャープ)の工場として開設したのです。これを「早川電機分工場」と名付けました。盲人だけで金属プレス加工を行う工場です。日本で初めての試みだったのではないでしょうか。失明者たちは、何度も指を負傷しながらも必死になって技術を修得し、懸命に作業に打ち込みました。
これがシャープの障がい者雇用のはじまりです。そして、シャープ特選工業へとつながっていきます。


特選金属工場の創立

1950(昭和25)年8月29日、失明者たちが働くプレス加工工場「早川電機分工場」は早川電機工業から完全に独立し、合資会社「特選金属工場」(現シャープ特選工業株式会社)として新たに創立しました。

早川徳次には、「何かを施す慈善より、障がい者自身が仕事をして自助自立出来る環境を作ることが福祉に繋がる」という強い信念がありました。

徳次は、まだ幼い時に盲目の老婆に手を引かれて丁稚奉公に入った。そして、ここで仕事をする機会を得たことで、後の人生を拓き事業を築くことができました。その自らの経験に基づく信念から失明者たちが独立し自立する道を引いたのです。
当時は、第二次世界大戦が1945(昭和20)年に終戦し、戦後の不況が電機業界にも波及していました。そんな中、徳次は、早川電機分工場で働く失明者たちに退職金を渡し、その退職金を出資して会社を設立するように促したのです。工場や設備機械などは早川電機工業が支援をしました。

設立にあたり、早川徳次は独立する者たちに「盲人の新たな職業開拓はこれからだ。皆さんは盲人の中から特に選ばれた“特選者”である。その誇りを持って働きなさい」と励ましました。そして、この新会社の社名に「特選」と付けたのです。

そうして、失明者7名と技術指導のための健常者1名の計8名による会社経営、事業活動がはじまりました。
合資会社「特選金属工場」の初代代表は、山本卯吉という全盲者でした。

山本卯吉は、のちに当時をふり返りこう語っています。
「わたしが会社の代表になった時、早川さんから、『なんとしても会社を赤字にしないように経営しなさい。そして万一不況になっても経営者たるものは、会社の都合で社員に辞めてくれというようなことは絶対にいうべきじゃないんだ。』と言われました。それは早川さんの信条ですから、わたしもそれだけは、しっかり守ろうとしてきました。」

山本卯吉をはじめ盲目の経営者たちにとって、独立してこの会社を営むことは決して容易いことではありませんでした。
しかし、この盲目の経営者たちは、早川創業者の信条を守り、そして特選者としての誇りを持って、自分たちだけで懸命に事業を経営していく道を歩みはじめました。


初代代表  山本卯吉(やまもと うきち)
陸軍軍人だった1941(昭和16)年、中国で手投げ弾が爆発して両目を失明。
故郷の大阪に戻った際、視覚障がい者の支援団体創設者の岩橋武夫氏を通じて早川創業者に出会いました。のちに早川電機工業に入社し独立を経て「特選金属工場」の代表を1950(昭和25)年~1982(昭和57)年32年間務めました。2005(平成17)年没。


障がい者のモデル工場

特選金属工場が創立した1950(昭和25)年は、身体障害者福祉法が制定された年でもあり、社会的に障がい者の社会参加が歩み始めた時代でした。早川徳次は、「盲人でも企業を経営する能力がある。この会社を大きくして一人でも多くの障がい者を雇用し、モデル工場として発展させよう」と特選金属工場の従業員を励ましました。

その言葉を真摯に受け止めて、初代代表の山本卯吉をはじめ従業員一人ひとりが持てる能力を精一杯出して、日々精進を重ねると共に新たな挑戦を続けました。そうしてラジオの部品加工に加えて、新たに生産が始まった白黒テレビの部品小物の組み立て作業、さらに1957(昭和32)年には、カラーテレビ部品の組み立て作業も受注し事業規模を拡大していきました。あわせて、視覚障がい者のみならず肢体障がい者の雇用も開始し、さらに幅広く障がい者を雇用する工場として発展していきました。

こうした視覚障がい者自らが経営する特選金属工場の取り組みは世間に広く知られるようになりました。
1952(昭和27)年、当時、社会事業家として著名であった賀川豊彦氏が、世界的に富豪であり慈善活動家としても有名であったロックフェラー氏を伴って、特選金属工場の視察に来られました。

1954(昭和29)年に三笠宮殿下と高松宮殿下、同妃殿下が立て続けに特選金属工場を視察され、障がいがありながらも巧みにそして闊達に作業をしている者たちを見て励ましのお言葉を掛けて頂きました。従業員はそのお言葉に感激し、一層意欲を高めて仕事に打ち込みました。

特選金属工場の発展と並行して、障がい者が働く機会を得られるための社会的気運はさらに高まり、1960(昭和35)年7月には「身体障害者雇用促進法」が施行されました。当制度のもとで、特選金属工場は「適応訓練指定工場」となり、聴覚障がい者や肢体障がい者の職業訓練を開始し、障がい者が働くための道を拓いていきました。まさに障がい者のための「モデル工場」としての歩みを進めていったのです。


1963(昭和38)年に、社名を合資会社「早川特選金属工場」に変更しました。さらに、1966(昭和41)年には、当時の早川電機工業の敷地内(大阪市阿倍野区西田辺駅付近)にあった工場を、大阪市阿倍野区阪南町(現在の会社所在地)に移転して増床し、さらなる業容拡大に向けて取り組みました。

当時、代表の山本卯吉は、「従業員の障がい者と健常者の比率を50%ずつにする」という方針を定めました。これは障がい者と健常者が、分け隔てなく、それぞれの個性を理解し、支え合って、共に働くという「共生」の考えでもあり、その考え方は今のシャープ特選工業に引き継がれています。



親子だるま

不遇な幼少期に助けてもらった盲目の老婆井上さんへの報恩感謝の念から戦盲者の工場をつくった早川徳次、早川徳次の想いに応えて懸命に働き特選金属工場を立ち上げて業容を拡大してきた従業員たち、その早川徳次と従業員の間には強い絆があったことがうかがえるエピソードがあります。

会社が創立二十周年を迎えた1970(昭和45)年に、早川徳次が大阪市に寄贈した早川福祉会館(大阪市東住吉区)で、大阪府知事を来賓に迎え、早川特選金属工場「創立二十周年記念大会」を行いました。
その際、従業員たちは早川徳次に三つの気持ちを込めて、木彫りの「親子だるま」を贈りました。

一つ、早川徳次の深い理解と指導によって創立二十周年を迎えることができたことへの感謝
一つ、障がいがあっても工場で働くことによって立派に社会に参加し健常者と肩を並べて働くことができる喜び
一つ、記念大会を機に初心に返り、自助自立に向けて一層の努力をすることへの新たな誓い

この三つの想いの印として、親だるまに早川徳次の名を、子だるま一つ一つには当時在籍の身体障がいのある社員一人一人の氏名を彫り込みました。
障がい者の自立を願う早川徳次と、その想いに感謝と尊敬を抱く従業員の間には、まさしく親子のような信頼関係があったのです。






新たな
歩みへ

日本初の特例子会社

1970(昭和45)年、早川電機工業は、早川徳次が発明したシャープペンシルを由来として「シャープ株式会社」に社名を変更し、総合エレクトロニクスメーカーへと進展していきました。

1976(昭和51)年に身体障害者雇用促進法で障がい者雇用の義務化が制定され、同法において特例子会社が制度化されました。

その翌1977(昭和52)年に早川特選金属工場はシャープ株式会社の特例子会社として認定されました。この制度ができた時には既に多くの障がい者を雇用し実績をあげていたことから、いち早く認定され日本における「特例子会社認定第一号」となったのです。

1980(昭和55)年6月に早川徳次が他界しました。享年88歳でした。早川徳次を実の親父のように慕っていた特選金属工場の従業員たちは、その訃報に接して心から涙を流して見送りました。

新社屋建設

1981(昭和56)年10月、かねてより進めていた特選金属工場の社屋の建替えが竣工しました。障がい者を多数雇用する事業所として国からの補助金を得て、木造平屋の建屋から鉄筋コンクリート3階建ての丈夫な建屋となりました。そして、現在に至っています。

特選の精神「何糞」を掲げて

いまシャープ特選工業の従業員が集まる食堂兼集会室には、「何糞」と印された書が掲げられています。これは、早川徳次が当時の早川特選金属工場の従業員に贈った直筆の書です。波乱万丈の人生を歩んできた早川徳次は、いくつもの逆境を「何糞」との思いで乗り越えてきました。

その自らの経験から、早川特選金属工場の従業員たちに「たとえ障がいがあっても何糞と思って乗り越えて、自分たちの道を切り拓いていってほしい」という思いを伝えたかったのです。また、事実、その想いに応えて、山本卯吉をはじめとする盲目の特選創業者たちは、多くの困難を「何糞」と自らの誠意と努力で乗り越えて、見事に事業と障がい者雇用を拡大させてきました。 この「何糞」は、まさに特選の魂です。新しい建屋ができ、最後に「何糞」の書を拡大し額に入れて、全従業員が集まる場所に大きく掲げました。これで新社屋の完成です。
「何糞」は、シャープ特選工業の従業員の行動指針の一つとして現在の従業員に受け継がれています。



内閣総理大臣賞を受賞

1981(昭和56)年12月9日に国連で「障害者の権利に関する決議」が採択されました。また日本では同年12月9日を「障害者の日」と制定しました。その日に、長年障がい者雇用の促進に尽くしてきた功績から、早川特選金属工場が内閣総理大臣賞を受賞することとなりました。

山本卯吉ら役員3人が白い杖を持ち上京して授賞式に臨みました。初めての上京です。当時の鈴木総理大臣より表彰状を手渡されました。またその後の晩餐会では当時の皇太子(現在の明仁上皇)より直接励ましの声を掛けて頂きました。山本卯吉は、「その時の感激はひとしおだった、いつまでも忘れられない」と語っています。

その翌年1982(昭和57)年9月、特選金属工場創設から32年間、日々奮闘を続けてきた盲目の経営者たちは引退しました。
そして、早川特選金属工場は、シャープが100%出資する特例子会社「シャープ特選工業株式会社」となり、現在に至っています。




シャープ特選工業を立ち上げてきた初代の経営者たちは、失明の不自由さを持ちながらも、つねに希望と情熱を抱き、懸命に熱心にプレス作業と経営に取り組みました。そして時を重ねるごとに業容は拡大し、障がいのある従業員数も増えていきました。「何糞」と障がいを乗り越えながら、自らの道を切り拓いていったのです。さらに多くの障がい者たちが活躍できる社会づくりへの道を引いてきました。

私たちシャープ特選工業の従業員は、早川徳次の想いと、盲目の初代経営者たちの誠意と熱意を踏襲し、これからも、「感謝の心」 「人の和」 「何糞の精神」を大切にして仕事に取り組んでいきたいと考えています。



早川徳次の障がい者雇用への想い

1950(昭和25)年に「身体障害者福祉法」が制定され、同年に「合資会社特選金属工場」が創立しました。
その1年前の1949(昭和24)年に大阪に大阪府身体障害者雇用促進協議会(現 一般社団法人 大阪府雇用開発協会)という組織が発足しました。当協議会は第二次世界大戦後復興の中で、障がい者の働ける環境を整備していこうと、大阪の官民で取り組みはじめたものです。当協議会の初代会長が早川徳次でした。
当協議会では、障がい者雇用促進を啓発するための機関誌「H.E.C.」を発行してきました。その創刊号(1950年2月発行)に、早川徳次が創刊のあいさつとして寄稿しています。


そこには、早川徳次の「障がい者に働ける環境をつくること」に対する想いと実際の行動が記されています。 → H.E.C. 創刊のあいさつ 早川徳次 記

表紙デザインに、ランプの絵が描かれています。これは、1948(昭和23)年にヘレンケラー女史が来訪され、講演会で発言された言葉「あなたのランプの灯火をいま少し高く掲げてください。見えない人々の行く手を照らすために。」に由来しているものです。
<当時の早川電機工業の従業員の方のデザインとされています。>