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設立の経緯

  当社は1950(昭和25)年に設立され、今年で創立69年を迎えました。設立にあたり早川創業者は当時の従業員に「皆さんは盲人の中から選ばれた特選者である。誇りを持って働きなさい。」と励ましの言葉をかけられました。この言葉からはじまり、半世紀以上にわたり、様々なドラマが展開され、今日の当社の躍動につながっています。
連載第1回は、合資会社「特選金属工業」設立までを紹介します。

1944(昭和19)年「早川電機分工場」を設置

  早川創業者は、不遇な幼少時代に盲目の老女に助けられ年季奉公を始めることとなりました。これが後の早川創業者の人生を拓き、事業を築く礎となりました。早川創業者は、その盲人に対して深い感謝の思いを持ち続け、その恩に報いるために早川電機工業(現シャープ株式会社)の下に、太平洋戦争で失明した軍人が働ける場としてプレス加工工場「早川電機分工場」を設置しました。これが現在の「シャープ特選工業」のはじまりです。

1950(昭和25)年、合資会社「特選金属工場」設立

  早川創業者は「何かを施す慈善より、障がい者自身が仕事をして自助自立出来る環境を作ることが福祉に繋がる」という強い信念のもと、早川電機工業から「早川電機分工場」を独立させ「合資会社 特選金属工場」を設立しました。設立当初、事業経営にあたった者の8人が視覚障がい者で、初代の代表も全盲でした。






「特選金属
工場」設立

  合資会社「特選金属工場」(現シャープ特選工業株式会社)の初代代表は、山本卯吉さんという全盲の方でした。早川創業者は、早川電機工業(現シャープ株式会社)内の早川電機分工場で働く山本さんたちに、独立した会社をつくることを奨めました。この勧めを受けて、山本さんは共に働く戦盲者7名と技術指導者の健常者1名を加えた8名で早川電機工業から独立し、1950(昭和25)年8月に特選金属工場を発足しました。会社設立のための必要な資金は自分たちの退職金からまかない、工場・機械などは早川電機工業から援助を貰いました。

山本さんは、のちに当時をこう語っています。
「わたしが会社の代表になった時、早川さんから、『なんとしても会社を赤字にしないように経営しなさい。そして万一不況になっても経営者たるものは、会社の都合で社員に辞めてくれというようなことは絶対にいうべきじゃないんだ。』と言われました。それは早川さんの信条ですから、わたしもそれだけは、しっかり守ろうとしてきました。」

  特選金属工場を設立した1950(昭和25)年は、戦後の不況が電機業界にも波及していました。そのような厳しい経営環境の下で、山本さんたちは、早川創業者の信条を守り、そして特選者としての誇りを持って、自分たちだけで懸命に事業を経営していく道を歩みはじめました。山本さんたちは、失明の不自由さを持ちながらも、つねに希望と情熱を抱き、まじめに熱心にプレス作業と経営に取り組み、事業は時を重ねるごとに拡大していきました。山本さんたちは、障がいを乗り越えながら、自らの道を切り拓いていったのです。


初代代表  山本卯吉(やまもと うきち)
陸軍軍人だった1941(昭和16)年、中国で手投げ弾が爆発して両目を失明。故郷の大阪に戻った際、視覚障がい者の支援団体創設者の岩橋武夫氏を通じて早川創業者に出会いました。のちに早川電機工業に入社し独立を経て「特選金属工場」の代表を1950(昭和25)年~1982(昭和57)年32年間務めました。2005(平成17)年没。






障がい者の
モデル工場

  「特選金属工場」(現シャープ特選工業株式会社)が設立した1950(昭和25)年は、身体障害者福祉法が制定され、社会的にも障がい者の社会参加が歩み始めた時代でした。早川創業者は「盲人でも企業を経営する能力がある。会社を大きくして一人でも多くの障がい者を雇用し、モデル工場として発展させるように」と当時の従業員を励ましました。その言葉を受けて、初代代表の山本さんをはじめ、全従業員が「何糞」の精神で、その持てる能力を最大限に発揮し、ラジオの部品加工に加えて新たに生産が始まった白黒テレビの部品小物の組み立て作業も受注して事業規模を拡大していきました。
また、こうした時期に、1954(昭和29)年6月と12月に高松宮殿下がご視察され、励ましのお言葉を掛けて頂き、従業員はそのお言葉に感謝し一層仕事に熱中しました。

1957(昭和32)年には、カラーテレビ部品の組み立て作業の受注と共に、肢体障がい者の雇用を開始し、幅広く障がい者を雇用する工場として発展していきました。

1960(昭和35)年7月に身体障害者雇用促進法が施行されると、適応訓練指定工場となり、聴覚障がい者や肢体障がい者の職業訓練を開始し、障がい者が働くための道を拓いていきました。まさに障がい者のモデル工場としての歩みを進めていったのです。






親子だるま

  合資会社「特選金属工場」は、従業員のひたむきな努力が実り、順調に事業拡大を続けていきました。
そして、1963(昭和38)年に、社名を合資会社「早川特選金属工場」に変更しました。さらに、1965(昭和40)年には、当時の早川電機工業の西側工場(現シャープ田辺南ビル西側)にあった工場を、大阪市阿倍野区阪南町(現在の会社所在地)に移転して増床し、さらなる業容拡大へと邁進していました。

そのように会社が急成長する時代、早川創業者と従業員の間には強い絆があったことがうかがえるエピソードがあります。

会社が創立二十周年を迎えた1970(昭和45)年に、早川創業者が大阪市に寄贈した早川福祉会館(大阪市東住吉区)で、大阪府知事を来賓に迎え、早川特選金属工場「創立二十周年記念大会」を行いました。
その際、障がいのある社員より早川創業者に記念品として三つの気持ちを込めて、木彫りの「親子だるま」を贈呈しました。

  • 早川創業者の深いご理解とご指導によって創立二十周年を迎えることができたことへの感謝
  • 障がい者が早川特選工場に勤務することによって立派に社会参加し健常者と肩を並べて働くことができる喜び
  • 記念大会を機に初心に返り、自助自立に向けて一層の努力をすることへの新たな誓い

この想いの印として、親だるまに早川創業者の名を、子だるまには当時在籍の身体障がいのある社員一人一人の氏名を彫り込みました。

障がい者の自立を願う早川創業者と、早川創業者の想いに感謝と尊敬を抱く従業員の間には、まさしく親子のような信頼関係があったのです。