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ご挨拶

当社は1950(昭和25)年、シャープ株式会社創業者 早川徳次翁の信念のもと、障がい者の社会経済活動への参加と雇用促進を目的として創業いたしました。
以来、日本で最初の特例子会社として、電子部品の組立、金属加工を中心に逐次事業内容を拡大しながら障がい者への雇用の場を提供して参りました。
シャープ株式会社の事業内容拡大の歴史とともに歩みつつ、現在では最先端のデジタル機器(大型液晶ディスプレイ、電子デバイス、複合機の定着ユニット)等の精密部品の補修・加工・修理を行っています。
当社は「自ら思考し、行動する」よう、健常者及び障がい者の双方とも自立心を養うとともに、障がい者の新たな職能開発を進め、障がい者が社会参画し、
適所で業務を遂行する社会人へ育成することを念頭に致しております。
又、「健康で明るく働きやすい職場」づくりを目指し、環境にも配慮した運営に努めております。
私たち社員一同は、皆様の温かいご厚情に感謝し、障がい者の新たな職能域開拓に全員が一致協力し取り組み、社会への貢献に寄与したいと思料致しております。
変動著しいグローバル経済状況をふまえ、企業の社会的責任を果たすべく一層の取り組みを進めて参ります。
今後ともご指導ご支援を賜りますよう心よりお願い申し上げます。

代表取締役社長  早川 良次

会社概要

当社は、1977(昭和52)年に日本で初めて認定された第1号の特例子会社です。



社名シャープ特選工業株式会社
本社所在地大阪府大阪市阿倍野区阪南町7丁目9番12号
電話番号(06)6694-3111
設立1950(昭和25)年
代表取締役社長早川 良次(はやかわ よしつぐ)
資本金1,000万円
従業員数102名(障がい者61名) 2023年4月1日現在


「障がい者の雇用の促進等に関する法律(1976年制定)」に定義されている、障がい者の雇用に特別の配慮をした子会社。資本や役員の構成、障がい者雇用率など一定要件を満たす場合、特例として、その子会社で雇用される労働者を親会社が雇用しているとみなして雇用率を算定できる。

2023年4月1日現在雇用ポイント 86

企業方針




《シャープ 経営理念・経営信条》

《シャープ特選工業株式会社 経営方針》

①障がい者の就労の場を確保し、長く就労できる環境をつくるため、経営理念・経営信条に基づく判断・行動で、健全な経営を行う。

②障がい種別の異なる者同士が助け合い健常者もそれに参画した協同する仕組みを作りを継続する(共生の理念)。

③「自助自立」に向けて、個々の障がい者も、健常者も、仕事へのプロ精神を忘れず、日々能力開発に取り組む。

④キャリア教育支援活動を通じ、一人でも多くの障がい者が就労できるよう支援する。

⑤社外の障がい者や支援者との連携を強めて、障がい者が安心して住みよいと感じる地域社会の仕組み作りに参画する。

企業ビジョン

歴史

障がい者雇用の会社設立の背景と歩み




早川創業者は、不幸な幼少時代に盲目の老女に年季奉公の道を拓いてもらったことが、後の事業と人生を築く礎となった。その盲人への感謝の思いを持ち続け、その恩に報いるために、太平洋戦争で失明した軍人が働く場として、早川電機工業(現シャープ株式会社)の下に「早川電機分工場」を設置した。これが現在の「シャープ特選工業」の前身となった。
1950(昭和25年)、合資会社「特選金属工場」設立 ※身体障害者雇用促進法制定の10年前

早川創業者は、「何かを施す慈善より、障がい者自身で仕事をし、自助自立出来る環境を作る事が福祉に繋がる」という信念のもと、失明した軍人が働くプレス加工工場を独立させ当初経営にあたった者の8人が視覚障がい者たちであった。

その後、1963(昭和38)年に「合資会社 早川特選金属工場」に改名、1977(昭和52)年にシャープ株式会社の「特例子会社」認定され、1982(昭和57)年に現在の社名「シャープ特選工業株式会社」に改名


history
  • シャープ 
  • 特選 
  • 障がい関連 
  • 社会の動き 

シャープ特選工業の歴史 シャープ、社会、障がい者関連の動き
 
   

1893 シャープ創業者早川徳次生誕

1901 早川徳次(9歳)、錺屋にて丁稚奉公へ

1912 シャープ創業の日

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徳尾錠の発明を機に、創業者早川徳次が
独立開業


1915「早川式繰出鉛筆」を発明

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後にこの名称を「エバーレディシャープペンシル」として製造販売し、事業拡大へと繋がる



1923 関東大震災

1924 「早川金属工業研究所」創業
    (大阪市阿倍野区西田辺駅付近)

1925 国産第一号鉱石ラジオ受信機発売

1925 ラジオ放送開始


1929 交流式真空管ラジオ「シャープダイン」発売

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ヘッドセットで一人で聴く鉱石ラジオから
スピーカーでみんなで聴ける真空管ラジオへ



1934 平野工場を建設(ラジオ部品生産)

1936 早川金属工業株式会社に社名変更

1937 ヘレンケラー女史初来日

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ライトハウス会館をはじめ、全国各地の
盲・ろう学校を訪問


1939 第二次世界大戦開戦

 



1943 岩橋武夫氏の依頼により、ライトハウスにて
  失明軍人へ講演と講習指導の実施

1944 ライトハウス内に失明軍人を雇用し、
  「早川分工場」開設

 視覚障がい者施設「ライトハウス」の代表者、岩橋武夫氏より
 作業指導の依頼をきっかけとし、雇用へと繋がった。シャープ
 障がい者雇用の始まりとなる。

1946 失明軍人の再雇用

 ライトハウス内「早川分工場」で雇用していた7名を再雇用し、
 プレス加工を開始

   

1942 早川電気工業株式会社に社名変更

1945 第二次世界大戦終戦





1948 ヘレンケラー女史2度目の来日

 日本全国数十回の講演を実施、日本の福祉制度の整備に大きな
 影響を与えた。 大阪中の島中央公会堂での講演を早川徳次が聴講
 し、大阪府身体障がい者雇用促進協議会の発足へと繋がった。

1949 大阪府身体障害者雇用促進協議会
  (現:一般社団法人大阪雇用開発協会)発足

 初代会長に早川徳次が就任

 

1950 合資会社特選金属工場の創立
    ラジオ部品、金属プレス加工開始

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1951 身体障害者雇用開始




1952 テレビ用部品の組立て開始

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1954 高松宮殿下、同妃殿下のご視察

1954

   

1950 身体障害者福祉法制定

1951 民間ラジオ放送開始

  同年9月1日午前6時30分、中部日本放送が日本初の民間放送
 を開始。同年同日正午、大阪の新日本放送(現、毎日放送)も
 放送開始。


1952 国産第一号テレビ発売

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 1931年 テレビの開発に着手
 1951年 テレビの試作に成功


1953 テレビ放送開始

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同年2月1日午後2時、NHKによりテレビ
放送開始。同年8月28日民間放送も開始。


1955 ヘレンケラー女史3度目の来日

  岩橋武夫氏の霊前に花輪を捧げた。



1959 皇太子ご成婚

   パレードのテレビ中継は約1,500万人が視聴したと推定され、
  テレビから家電製品の消費ブームを呼び起こすきっかけとなった。

1959 八尾工場稼働開始(冷蔵庫、洗濯機生産)

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1960 身体障害者適応訓練指定工場となる

1963 合資会社「早川特選金属工場」へ社名変更



1966 大阪市阿倍野区阪南町(現在の会社所在地)に移転、増床


1967 電子計算機基板の生産開始

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1968 雇用促進感謝状 受賞

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当社の身体障がい者の率先雇用により、
職業更生の功績が安定。行政に協力したと
認められ、労働大臣から感謝状を頂く。

   

1960 身体障害者雇用促進法施行

   障がい者の雇用機会を広げ、障がい者が自立できる社会の
  構築を目的とした法律

1960 大和郡山工場稼働開始(電子レンジ、電卓生産)

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1962 国内初の量産電子レンジ発売

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1962 「財団法人早川福祉センター」設立、大阪市へ寄贈

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大阪市並びに大阪市民への感謝と
事業50周年の記念の意を込めて寄贈


1964 東京オリンピック

1964 オールトランジスタ電卓「コンペット」発売

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世界初のオールトランジスタ・ダイオード
による電子式卓上計算機


1966 国内初のターンテーブル式家庭用電子レンジ発売

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1967 広島工場稼働開始(トランジスタラジオ生産)

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1968 初の経営基本方針発表会を開催


1968 栃木工場稼働開始(カラーテレビ生産)

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1968 奈良県天理工場稼働開始

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1972 電子レンジ操作パネルの生産開始

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1972 電卓用プリント基板の生産開始

1977 日本における第一号として特例子会社認定

   

1970 日本万国博覧会 EXPO'70 開催

  シャープ株式会社は出展せず、天理へ開発センターを建設

1970 「シャープ株式会社」に社名変更

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佐伯旭専務が社長、早川徳次社長は会長に就任


1970 シャープ総合開発センター竣工


1972 複写機を発売



1973 液晶表示電卓「液晶コンペット」発売

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1976 身体障害者雇用促進法制定、特例子会社が
    制度化、雇用義務化開始



1979 日本語ワープロ「書院」発売

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 1977年 業界で初めて日本語Word
 プロセッサの試作に成功

 

1981 身障者モデル工場内閣総理大臣賞受賞

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1981 新社屋(現社屋)を建設

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1982 「シャープ特選工業株式会社」社名変更

1985 リモコン送信機完成品生産開始

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1987 「大阪労働基準局長賞」受賞

1987 「日本障害者雇用促進協会賞」受賞

1987 FPC加工業務開始


1988 ICカード加工業務開始

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1989 身障者雇用促進論文労働大臣賞受賞

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1980 早川会長 ご逝去

1981 国際連合にて「障害者の権利に関する決議」採択

   「完全参加」をテーマとする国際障がい者年と宣言。
   同年に12月9日を「障がい者の日」と制定



1981 ELディスプレイ量産工場を建設

1981 新庄(現・葛城工場)の稼働開始(ソーラーシステム生産)

1985 福山工場稼働開始(メモリーを生産)

1985 3型液晶カラーテレビの試作に成功




1987 電子システム手帳発売

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1988 14型TFTカラー液晶ディスプレイ発売

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1989 BS放送開始

 

1990 翻訳事業開始

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英語、中国語、韓国語、ドイツ語、
フランス語などあらゆる言語の翻訳を
開始する。


1990 創立40周年記念誌「シャープ特選と私」発行

magazine


1993 DBSチューナ生産開始

DBStuner



1996 特例子会社で初めてISO9002取得

1999 携帯電話修理業務開始

   

1992 CS放送開始

1995 阪神淡路大震災

1995 三重工場稼働開始(液晶を生産)

1996 CSデジタル放送開始

1997 国内の全生産事業所でISO14001取得

ISO14001

1998 知的障がい者雇用義務化開始

 

2000 液晶用バックライト加工開始

Backlight


2001 レーザーチップ加工開始

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建屋1階のクリーンルームで、DVDなどの
ピックアップ部に使用される半導体レーザ
 チップの加工・検査を実施をする





2005 ISO9001取得



2006 印刷業務開始

2008 ソーラーチェックシート 電子保存業務開始


2008 「ハートフル企業ランプのともしび大賞」 受賞

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 早川創業者とヘレンケラー女史の出会い
 が日本の障がい者雇用を大きく発展させ
 る起点となった功績と 大阪で障がい者雇
 用を継続していることが認められ受賞


2009 「障害者雇用優良企業」表彰受賞


2009 「高年齢者・障害者雇用フェスタ2009」表彰

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障がい者雇用促進や職場定着の功績が認め
られ「障害者雇用功労事業所」として受賞


   

2000 BSデジタル放送開始

2002 三原工場稼働開始

2003 小集団活動を「R-CATS」と改名

  東京・大阪・名古屋の三大都市圏で地上デジタル放送開始

2004 亀山工場稼働開始(液晶テレビ生産)

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 第八回日本水大賞の「経済産業
 大臣賞」を受賞


2006 ワンセグ放送開始

2008 米国の証券会社「リーマン・ブラザーズ」が経営破綻

 

2010 創業60周年記念誌社内報「つばさ」創刊

Internalnews


2010 冷蔵庫コンプレッサー用部品組み立て生産開始

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冷蔵庫に搭載されたコンプレッサーと制御
基板を中継するケーブルを組立てる作業と、
冷蔵庫を制御する制御基板をボックス内に
取付ける作業を開始


2010 サービスパーツ パッキング業務開始


2011 特許・複合機コンテスト電子保存業務開始

Computerization

紙の書類をスキャニングして電子データ化し、
長期保存が必要な重要書類のダウンサイジング(サイズや規模を小さくする)業務を開始


2011 重要書類細断業務開始

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シャープ及びシャープグループから業務
委託して頂いている、重要書類の細断業務
を開始

2011 複合機ユニット修理(リペア)業務開始

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シャープ製複合機で使用された定着部
ユニットのリペア業務を開始

2011 清掃業務開始

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日常清掃(玄関、廊下、階段、トイレなどの
共用部や、居室、会議室など)の業務の他、
ワックス掛けなどの定期清掃も行う


2012 「ハートフル企業教育貢献賞(知事表彰)」受賞

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2012 キャリア教育支援活動「出前授業」開始

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キャリア教育支援活動の一環として、
「障がいのある方の就業」の一助となる
ことをめざした「出前授業」を開始


2014 HEMS・センサー梱包業務開始

HEMS


2014 精神障がい者等雇用促進モデル事業 受託


2014 「大阪府障がい者サポートカンパニー優良企業」受賞

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2015 「支援教育サポート企業表彰」受賞

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2016 シャープ堺メール室業務を開始

2016 当社オリジナルキャラクター「とくまる」生誕

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2018 シャープ堺匠寮(誠意館)清掃開始


2019 シャープ堺匠寮(創意館)清掃開始


2020 シャープ八尾リサイクルセンター管理業務開始
    8月29日 創立70周年


   

2010 シャープ堺工場稼働開始


2010 高効率太陽電池「BLACK SOLAR」の開発成功

2011 東日本大震災

2013 「第3回キャリア教育アワード普及型キャリア教育
  モデル部門最優秀賞(経済産業大臣賞)」受賞

  東京・大阪・名古屋の三大都市圏で地上デジタル放送開始



2018 精神障がい者雇用義務化開始


この時の井上さんに引かれた温かかった手のぬくもりは、今なおこの私の手の中に残っている。私の生涯の門出は、盲目の井上さんによってひらかれたのであった。

=== 早川徳次著「私の考え方」より ===

幼少期に出会った、目の不自由なおばあさん
仕事ができる環境を与えてもらった、これが後の人生を拓いた
その恩を返したいという想いを生涯抱き続けた

シャープ創業者 早川徳次が幼少期の体験で得た「働けること」への喜びは「報恩感謝」の心となり、障がい者福祉への強い信念となった。

「何かを施す慈善より、障がい者自身で仕事をし、自助自立できる環境を作ることが福祉につながる」




その早川徳次の熱い想いに、不遇の戦盲者たちはひとすじの希望の光を見いだした。
そして死に物狂いで仕事に打ち込み、その誠意と情熱で自ら自立する道を切り拓いていった。

早川徳次とこの失明者たちの熱意と努力は、障がい者のための事業と雇用を創造し、世の中に貢献した。


そして今なお、これら先人たちの心はシャープ特選工業に脈々と受け継がれている。
シャープが歩んできた障がい者雇用の軌跡


早川徳次とシャープの誕生

つらい日々

シャープの創業者早川徳次は、1893(明治26)年11月3日、東京市日本橋(現:東京都中央区)で生まれました。
親御さんが病弱で1歳11ヵ月で養子に出されました。ところが養子先では、継母に辛く当たられ、小学校も2年足らずでやめさせられ、夜中まで内職の手伝いを強いられるという悲惨な日々を送っていました。




生涯の門出

そんな徳次を不憫に思っていたお婆さんが近所にいました。そのお婆さんは井上さんといって目が不自由でした。井上さんは養父母に「学校にもやらず内職させるなら仕事をおぼえさせなさい」と言い、徳次に丁稚奉公先を紹介してくれました。そして、杖をつきながら徳次の手を引いて、その奉公先へ連れて行ってくれたのです。

1901(明治34)年9月、徳次はまだ8歳。これが生涯を決定づける門出となったのです。







独立開業

徳次の奉公先は錺屋(金属細工業)の職人でした。そこで厳しい修行を積みました。とても忙しい毎日でしたが、そんな中でも徳次は常に独自の知恵と工夫を巡らせていました。

そして、穴がいらないベルトのバックル「徳尾錠」を発明。これを機に独立して、金属加工業を開業したのです。
1912(大正元)年9月15日20歳での巣立ちです。
この時をシャープ創業の時として刻んでいます。




徳次は、独立開業後も寝食を忘れて懸命に働きました。
そして1915(大正4)年に金属製の「早川式繰出鉛筆」を発明し製造販売をはじめました。後にこれを「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」と銘打ち、海外への輸出も広げていきました。
このシャープペンシルが今の「シャープ」という社名の由来です。



関東大震災

シャープペンシル事業は順風満帆に大きく拡大して従業員も200名を越えました。
そんな最中、1923(大正12)年9月1日、東京を関東大震災が襲いました。徳次は、工場と多くの従業員を失い、そしてなによりも大切な妻と二人の子供を亡くしたのです。
絶望のどん底にさらに追い打ちをかけるかのように、ある大阪の取引先から借金返済を厳しく迫られました。しかし震災ですべてを失い、徳次には返す金などありません。仕方なくシャープペンシルの特許と事業をその会社に譲渡することにしたのです。そして、その事業譲渡先への技術指導のため身ひとつで大阪へ移りました。



再起

震災からちょうど1年後の1924(大正13)年9月1日、シャープペンシル特許の譲渡先に対しての技術指導を終えました。
そして徳次は、この大阪の地での再起を決意し、「早川金属工業研究所」を立ち上げて金属加工業をはじめました。「第二の創業」です。

場所は今の大阪市阿倍野区西田辺駅付近。その後シャープ本社として90年余りの間この地と共に発展をしてきました。


大阪での事業再開からわずか1年後の1925(大正14)年4月、日本初のラジオ受信機の開発に成功。このラジオで事業を大きく拡大しました。シャープがエレクトロニクス企業となる第一歩です。その後も次々と業界初となる新しい商品を世に送り出し、現在に至っています。


障がい者雇用の始まり

岩橋武夫氏との出逢い

それは1940年代、第二次世界大戦の最中でした。ある日、シャープの創業者早川徳次のもとに、日本ライトハウス創設者の岩橋武夫氏から、ある依頼の手紙がよせられました。徳次は、岩橋武夫氏が1937(昭和12)年に盲聾の教育者ヘレンケラー女史を初めて日本に呼び、全国での講演会を実施したという新聞記事を読んだことがありました。しかし、岩橋武夫氏とはまったく面識がありませんでした。

それでも徳次は岩橋武夫氏と会うまでもなく、二つ返事でその依頼を受けることにしたのです。その依頼とは「戦争で目を失った失明軍人に対して電気についての講義と実地訓練をして欲しい」ということだったのです。
そして徳次は、心を込めて熱の入った講演と講習指導を実施しました。講習に参加した失明軍人達は真剣に耳を澄まして話を聞き、納得いくまで実習に打ち込んだと言われています。目を失った者たちは生きていくための光をこの講習に求めていたからです。
そのとき徳次は、幼い時に奉公先に手を引いてくれた盲目の老婆の手のぬくもりを思い出していました。つらい日々から救いだしてもらい人生を拓くきっかけをつくってくれたこの老婆に一生かけて恩返しをしようと心に決めていました。しかし老婆は大震災で行方知らずとなり、恩返しを果せず途方に暮れていました。そこで「老婆から受けた恩を世の中の盲人へ返していこう」と強い想いがこみ上げていたのです。


早川電機分工場の開設

後日また岩橋武夫氏が徳次を訪ねてきました。そして今度は「訓練をしてきた失明軍人のためにライトハウス内に実際の職場を作りたい。そこで器具、設備の提供をお願いしたい。加えて技術指導もして欲しい」と要請したのです。これにも徳次は快諾しました。
そして、1944(昭和19)年、その失明者たちを雇い入れ、彼らが作業する場所を早川電機工業(現在のシャープ)の工場として開設したのです。これを「早川電機分工場」と名付けました。盲人だけで金属プレス加工を行う工場です。日本で初めての試みだったのではないでしょうか。失明者たちは、何度も指を負傷しながらも必死になって技術を修得し、懸命に作業に打ち込みました。
これがシャープの障がい者雇用のはじまりです。そして、シャープ特選工業へとつながっていきます。


特選金属工場の創立

1950(昭和25)年8月29日、失明者たちが働くプレス加工工場「早川電機分工場」は早川電機工業から完全に独立し、合資会社「特選金属工場」(現シャープ特選工業株式会社)として新たに創立しました。

早川徳次には、「何かを施す慈善より、障がい者自身が仕事をして自助自立出来る環境を作ることが福祉に繋がる」という強い信念がありました。

徳次は、まだ幼い時に盲目の老婆に手を引かれて丁稚奉公に入った。そして、ここで仕事をする機会を得たことで、後の人生を拓き事業を築くことができました。その自らの経験に基づく信念から失明者たちが独立し自立する道を引いたのです。
当時は、第二次世界大戦が1945(昭和20)年に終戦し、戦後の不況が電機業界にも波及していました。そんな中、徳次は、早川電機分工場で働く失明者たちに退職金を渡し、その退職金を出資して会社を設立するように促したのです。工場や設備機械などは早川電機工業が支援をしました。

設立にあたり、早川徳次は独立する者たちに「盲人の新たな職業開拓はこれからだ。皆さんは盲人の中から特に選ばれた“特選者”である。その誇りを持って働きなさい」と励ましました。そして、この新会社の社名に「特選」と付けたのです。

そうして、失明者7名と技術指導のための健常者1名の計8名による会社経営、事業活動がはじまりました。
合資会社「特選金属工場」の初代代表は、山本卯吉という全盲者でした。

山本卯吉は、のちに当時をふり返りこう語っています。
「わたしが会社の代表になった時、早川さんから、『なんとしても会社を赤字にしないように経営しなさい。そして万一不況になっても経営者たるものは、会社の都合で社員に辞めてくれというようなことは絶対にいうべきじゃないんだ。』と言われました。それは早川さんの信条ですから、わたしもそれだけは、しっかり守ろうとしてきました。」

山本卯吉をはじめ盲目の経営者たちにとって、独立してこの会社を営むことは決して容易いことではありませんでした。
しかし、この盲目の経営者たちは、早川創業者の信条を守り、そして特選者としての誇りを持って、自分たちだけで懸命に事業を経営していく道を歩みはじめました。


初代代表  山本卯吉(やまもと うきち)
陸軍軍人だった1941(昭和16)年、中国で手投げ弾が爆発して両目を失明。
故郷の大阪に戻った際、視覚障がい者の支援団体創設者の岩橋武夫氏を通じて早川創業者に出会いました。のちに早川電機工業に入社し独立を経て「特選金属工場」の代表を1950(昭和25)年~1982(昭和57)年32年間務めました。2005(平成17)年没。


障がい者のモデル工場

特選金属工場が創立した1950(昭和25)年は、身体障害者福祉法が制定された年でもあり、社会的に障がい者の社会参加が歩み始めた時代でした。早川徳次は、「盲人でも企業を経営する能力がある。この会社を大きくして一人でも多くの障がい者を雇用し、モデル工場として発展させよう」と特選金属工場の従業員を励ましました。

その言葉を真摯に受け止めて、初代代表の山本卯吉をはじめ従業員一人ひとりが持てる能力を精一杯出して、日々精進を重ねると共に新たな挑戦を続けました。そうしてラジオの部品加工に加えて、新たに生産が始まった白黒テレビの部品小物の組み立て作業、さらに1957(昭和32)年には、カラーテレビ部品の組み立て作業も受注し事業規模を拡大していきました。あわせて、視覚障がい者のみならず肢体障がい者の雇用も開始し、さらに幅広く障がい者を雇用する工場として発展していきました。

こうした視覚障がい者自らが経営する特選金属工場の取り組みは世間に広く知られるようになりました。
1952(昭和27)年、当時、社会事業家として著名であった賀川豊彦氏が、世界的に富豪であり慈善活動家としても有名であったロックフェラー氏を伴って、特選金属工場の視察に来られました。

1954(昭和29)年に三笠宮殿下と高松宮殿下、同妃殿下が立て続けに特選金属工場を視察され、障がいがありながらも巧みにそして闊達に作業をしている者たちを見て励ましのお言葉を掛けて頂きました。従業員はそのお言葉に感激し、一層意欲を高めて仕事に打ち込みました。

特選金属工場の発展と並行して、障がい者が働く機会を得られるための社会的気運はさらに高まり、1960(昭和35)年7月には「身体障害者雇用促進法」が施行されました。当制度のもとで、特選金属工場は「適応訓練指定工場」となり、聴覚障がい者や肢体障がい者の職業訓練を開始し、障がい者が働くための道を拓いていきました。まさに障がい者のための「モデル工場」としての歩みを進めていったのです。


1963(昭和38)年に、社名を合資会社「早川特選金属工場」に変更しました。さらに、1966(昭和41)年には、当時の早川電機工業の敷地内(大阪市阿倍野区西田辺駅付近)にあった工場を、大阪市阿倍野区阪南町(現在の会社所在地)に移転して増床し、さらなる業容拡大に向けて取り組みました。

当時、代表の山本卯吉は、「従業員の障がい者と健常者の比率を50%ずつにする」という方針を定めました。これは障がい者と健常者が、分け隔てなく、それぞれの個性を理解し、支え合って、共に働くという「共生」の考えでもあり、その考え方は今のシャープ特選工業に引き継がれています。



親子だるま

不遇な幼少期に助けてもらった盲目の老婆井上さんへの報恩感謝の念から戦盲者の工場をつくった早川徳次、早川徳次の想いに応えて懸命に働き特選金属工場を立ち上げて業容を拡大してきた従業員たち、その早川徳次と従業員の間には強い絆があったことがうかがえるエピソードがあります。

会社が創立二十周年を迎えた1970(昭和45)年に、早川徳次が大阪市に寄贈した早川福祉会館(大阪市東住吉区)で、大阪府知事を来賓に迎え、早川特選金属工場「創立二十周年記念大会」を行いました。
その際、従業員たちは早川徳次に三つの気持ちを込めて、木彫りの「親子だるま」を贈りました。

一つ、早川徳次の深い理解と指導によって創立二十周年を迎えることができたことへの感謝
一つ、障がいがあっても工場で働くことによって立派に社会に参加し健常者と肩を並べて働くことができる喜び
一つ、記念大会を機に初心に返り、自助自立に向けて一層の努力をすることへの新たな誓い

この三つの想いの印として、親だるまに早川徳次の名を、子だるま一つ一つには当時在籍の身体障がいのある社員一人一人の氏名を彫り込みました。
障がい者の自立を願う早川徳次と、その想いに感謝と尊敬を抱く従業員の間には、まさしく親子のような信頼関係があったのです。


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日本初の特例子会社

1970(昭和45)年、早川電機工業は、早川徳次が発明したシャープペンシルを由来として「シャープ株式会社」に社名を変更し、総合エレクトロニクスメーカーへと進展していきました。

1976(昭和51)年に身体障害者雇用促進法で障がい者雇用の義務化が制定され、同法において特例子会社が制度化されました。

その翌1977(昭和52)年に早川特選金属工場はシャープ株式会社の特例子会社として認定されました。この制度ができた時には既に多くの障がい者を雇用し実績をあげていたことから、いち早く認定され日本における「特例子会社認定第一号」となったのです。

1980(昭和55)年6月に早川徳次が他界しました。享年88歳でした。早川徳次を実の親父のように慕っていた特選金属工場の従業員たちは、その訃報に接して心から涙を流して見送りました。

新社屋建設

1981(昭和56)年10月、かねてより進めていた特選金属工場の社屋の建替えが竣工しました。障がい者を多数雇用する事業所として国からの補助金を得て、木造平屋の建屋から鉄筋コンクリート3階建ての丈夫な建屋となりました。そして、現在に至っています。

特選の精神「何糞」を掲げて

いまシャープ特選工業の従業員が集まる食堂兼集会室には、「何糞」と印された書が掲げられています。これは、早川徳次が当時の早川特選金属工場の従業員に贈った直筆の書です。波乱万丈の人生を歩んできた早川徳次は、いくつもの逆境を「何糞」との思いで乗り越えてきました。

その自らの経験から、早川特選金属工場の従業員たちに「たとえ障がいがあっても何糞と思って乗り越えて、自分たちの道を切り拓いていってほしい」という思いを伝えたかったのです。また、事実、その想いに応えて、山本卯吉をはじめとする盲目の特選創業者たちは、多くの困難を「何糞」と自らの誠意と努力で乗り越えて、見事に事業と障がい者雇用を拡大させてきました。 この「何糞」は、まさに特選の魂です。新しい建屋ができ、最後に「何糞」の書を拡大し額に入れて、全従業員が集まる場所に大きく掲げました。これで新社屋の完成です。
「何糞」は、シャープ特選工業の従業員の行動指針の一つとして現在の従業員に受け継がれています。



内閣総理大臣賞を受賞

1981(昭和56)年12月9日に国連で「障害者の権利に関する決議」が採択されました。また日本では同年12月9日を「障害者の日」と制定しました。その日に、長年障がい者雇用の促進に尽くしてきた功績から、早川特選金属工場が内閣総理大臣賞を受賞することとなりました。

山本卯吉ら役員3人が白い杖を持ち上京して授賞式に臨みました。初めての上京です。当時の鈴木総理大臣より表彰状を手渡されました。またその後の晩餐会では当時の皇太子(現在の明仁上皇)より直接励ましの声を掛けて頂きました。山本卯吉は、「その時の感激はひとしおだった、いつまでも忘れられない」と語っています。

その翌年1982(昭和57)年9月、特選金属工場創設から32年間、日々奮闘を続けてきた盲目の経営者たちは引退しました。
そして、早川特選金属工場は、シャープが100%出資する特例子会社「シャープ特選工業株式会社」となり、現在に至っています。




シャープ特選工業を立ち上げてきた初代の経営者たちは、失明の不自由さを持ちながらも、つねに希望と情熱を抱き、懸命に熱心にプレス作業と経営に取り組みました。そして時を重ねるごとに業容は拡大し、障がいのある従業員数も増えていきました。「何糞」と障がいを乗り越えながら、自らの道を切り拓いていったのです。さらに多くの障がい者たちが活躍できる社会づくりへの道を引いてきました。

私たちシャープ特選工業の従業員は、早川徳次の想いと、盲目の初代経営者たちの誠意と熱意を踏襲し、これからも、「感謝の心」 「人の和」 「何糞の精神」を大切にして仕事に取り組んでいきたいと考えています。



早川徳次の障がい者雇用への想い

1950(昭和25)年に「身体障害者福祉法」が制定され、同年に「合資会社特選金属工場」が創立しました。
その1年前の1949(昭和24)年に大阪に大阪府身体障害者雇用促進協議会(現 一般社団法人 大阪府雇用開発協会)という組織が発足しました。当協議会は第二次世界大戦後復興の中で、障がい者の働ける環境を整備していこうと、大阪の官民で取り組みはじめたものです。当協議会の初代会長が早川徳次でした。
当協議会では、障がい者雇用促進を啓発するための機関誌「H.E.C.」を発行してきました。その創刊号(1950年2月発行)に、早川徳次が創刊のあいさつとして寄稿しています。



そこには、早川徳次の「障がい者に働ける環境をつくること」に対する想いと実際の行動が記されています。 → H.E.C. 創刊のあいさつ 早川徳次 記

表紙デザインに、ランプの絵が描かれています。これは、1948(昭和23)年にヘレンケラー女史が来訪され、講演会で発言された言葉「あなたのランプの灯火をいま少し高く掲げてください。見えない人々の行く手を照らすために。」に由来しているものです。
<当時の早川電機工業の従業員の方のデザインとされています。>

表彰歴
 大臣、知事表彰

 各種団体表彰

大臣、知事表彰
表彰名表彰元
1968年(昭和43年)9月
労働大臣感謝状
労働大臣 賞状画像01
(表彰の対象)
 労働大臣が公益増進に協力してくれた団体または個人に対して
感謝の意を表し、感謝状の贈呈を行います。
(受賞の理由)
 当社の身体障がい者の率先雇用、職業更生の功績が職業安定
行政に協力したと認められ感謝状を頂戴しました。
1981年(昭和56年)9月
内閣総理大臣賞
内閣総理大臣 賞状画像02 賞状画像02
(表彰の対象)
 内閣総理大臣が日本国内において、様々な分野で成果を上げた
団体または個人に表彰します。
(受賞の理由)
 1975年(昭和50年)12月9日に国際連合の第30回総会において
て「障害者の権利に関する決議」が採択され日本でも厚生省
が1981年(昭和56年)に国際障害者年を記念し12月9日を
「障害者の日」*と決定いたしました。その1981年(昭和56
年)12月9日に障がい者雇用を進めている当社が受賞いたし
ました。
*現在は12月3日から12月9日までの「障害者週間」となっ
ております。
1987年(昭和62年)9月
労働大臣賞
労働大臣 賞状画像05
(表彰の対象)
労働大臣が公益増進に協力してくれた団体または個人に対して
表彰します。
(受賞の理由)
身体障害者雇用促進協会主催の「障害者の雇用をすすめるに
は」の募集論文で小杉元社長の論文が高い評価を受け受賞い
たしました。
2013年(平成25年)2月
経済産業大臣賞
経済産業大臣
(表彰の対象)
経済産業大臣が産業界による優れた教育支援活動の取組みと
その効果を広く社会で共有し、こうした活動を奨励・普及・
促進することを目的として、企業や経済団体による教育支援
の取組を公募し、優秀と認められる取組みをキャリア教育ア
ワード賞として表彰しています。
(受賞の理由)
シャープ(株)より受託している特別支援学校等へのキャリア
教育支援活動が、経済産業省が主催する「第3回キャリア教
育アワード」の「普及型キャリア教育モデル部門」において
障がいのある子ども達の職業観や勤労観を育み、自立支援に
繋がるものとして評価されシャープ(株)が最優秀賞(経済産業
大臣賞)を受賞しました。
 各種団体表彰
表彰名 表彰元
1983年(昭和58年)10月
大阪労働基準局長賞
大阪労働
基準局長
賞状画像03
(表彰の対象)
大阪労働局が毎年、安全衛生成績が高い水準にあり、他の模
範と認められる優良事業場団体または関係事業場における功
績者を局長表彰します。
(受賞の理由)
労働衛生週間に際し、積極的な労働衛生管理活動が評価され
努力賞を受賞いたしました。
1987年(昭和62年)6月
感謝状
全国社会福祉
協議会
賞状画像04
(受賞の理由)
全国社会福祉協議会が、福祉事業に取り組んだ法人や会の発
展に協力した団体または個人に対して、感謝の意を表し感謝
状を頂戴しました。
1990年(平成2年)
日本障害者雇用促進協会賞
日本障害者
雇用促進協会
(表彰の対象)
日本障害者雇用促進協会が高年齢者や障がい者の雇用拡大に
積極的に取り組んだ企業や人に対し表彰します。
(受賞の理由)
障がい者の雇用促進や職場定着の功績が認められ受賞いたし
ました。
2008年(平成20年)9月
ランプのともしび
大賞(起点大賞)
大阪障害者
雇用支援
ネットワーク
賞状画像06 賞状画像06-1
(表彰の対象)
大阪府の企業顕彰制度の一つで大阪障害者雇用支援ネットワ
ークが障がいのある人の雇用の促進に貢献し、企業就労のネ
ットワーク形成や雇用の促進活動において特に独自性のある
事業所や個人を表彰します。
(受賞の対象)
早川創業者とヘレンケラー女史の出会いが日本の障がい者雇
用を大きく発展させる起点となった功績と大阪で障がい者雇
用を継続していることが認められ受賞いたしました。
2009年(平成21年)10月
高年齢者・障害者雇用
フェスタ表彰
大阪府雇用
開発協会
賞状画像07
(表彰の対象)
大阪府雇用開発協会が高年齢者や障がい者の雇用拡大に積極
的に取り組んだ企業や人に対し表彰します。
(受賞の理由)
障がい者の雇用促進や職場定着の功績が認められ「障害者雇
用功労事業所」として受賞いたしました。
2012年(平成24年)9月
ハートフル企業
教育貢献賞
大阪府知事 賞状画像08
(表彰の対象)
大阪府の企業顕彰制度の一つで大阪府知事が障がいのある人
の雇用の促進に貢献し、総合的な評価において功績が顕著で
ある事業所を対象に、府立支援学校から推薦され、教育委員
会表彰の対象となった事業所について選考の上表彰します。
(受賞の理由)
支援学校と連携し障がいのある生徒への職業教育や障がい者
雇用促進の功績が認められ受賞いたしました。
2014年(平成24年)10月
大阪府障がい者サポートカンパニー優良企業登録
大阪府知事 賞状画像11
(表彰の対象)
大阪府では障がい者の雇用や就労支援に積極的に取り組む事
業者を「大阪府障がい者サポートカンパニー」として登録し
、その取り組みを広く周知しています。その中でも次の取組
みのうち、いずれかを行う事業所は「大阪府障がい者サポー
トカンパニー優良企業」として登録しています。
・障がい者の職場体験、実習の受け入れている
・障がい者の就労施設等への物品又は役務の一定額以上の発
注実績がある
・法定雇用数を超える障がい者を雇用している
・大阪ハートフル基金との事業協定を締結している
・大阪府の障がい者雇用関連施策への協力実績がある
(受賞の理由)
当社のキャリア教育支援活動における障がい者の職場体験・
実習の受け入れや就労移行所への業務発注、法定雇用数を超
える障がい者雇用など、数々の社会貢献活動が認められ「大
阪府障がい者サポートカンパニー優良企業」として登録頂き
ました。
2015年(平成27年)10月
支援教育サポート
企業表彰
大阪府教育
委員会
賞状画像09
(表彰の対象)
大阪府教育委員会が大阪府立支援学校等で学ぶ生徒の社会的
自立に向けた職場実習や作業実習など職業教育の推進に協力
する企業を「支援教育サポート企業」として表彰します。
(受賞の理由)
支援学校生徒の職場実習の受け入れ等、キャリア教育支援活
動を継続して行っており、その社会貢献活動の功績が認めら
れ受賞いたしました。
事業内容

生産・修理サービス系や事務・業務サービス系と多岐にわたる業務で、様々な障がいのある人が就労しながら、職域開拓にも取り組んでいます。


職場環境

当社は歴史ある障がい者雇用の知見を活かし、障がい者のみならず、健常者も含めた共生と工夫に取り組み、職場の合理的配慮について、以下のように考え、実施しています。


  1. 現実的に実現可能な「物理的な配慮」の提供
  2. 労務管理者への配慮・教育や外部連携を含めた「丁寧な労務管理による配慮」の提供
  3. 「相互理解に基づく配慮」の提供
    (理解されている安心感と能力発揮で自信につながる環境の提供)
  4. 誇りを持って働ける「自分がすべき仕事がある職場環境」の提供

品質と生産性の向上を目指すやりがいのある業務を障がい者と健常者が共に、適材適所で各業務に携わっています。


当社の障がい者に対する合理的配慮の一例

共通

〔対応〕
  • 有給休暇を半日有給として利用可能
  • 企業在籍型職場適応援助の配置
  • サポーターによる見守り体制の構築
  • 総務課による部門横断的フォロー
  • 産業カウンセラーによるカウンセリング
  • 担当者毎の指揮系統・指示方法の明確化
〔目的〕
  • 通院への配慮、急な心身面の不良による
    通院など、相談体制

聴覚障がい

〔対応〕
  • 朝礼、研修、会議の時に手話通訳
  • 全体朝礼時、パワーポイント表示
  • 非常時パトライト
  • 外部建屋の清掃作業者制服に聴覚障がい者と
    わかる「耳マーク」ワッペン取り付け
  • 聴覚障がい者によるワンポイント手話勉強会
    実施
〔目的〕
  • コミュニケーション

下肢障がい

〔対応〕
  • 車通勤者への駐車場の賃借料負担
  • 車椅子用トイレの設置
  • 出勤時、退勤時、昼休みに玄関扉を解放
  • 操作パネル角度調整機能付コピー機
  • 救助用車椅子を準備
〔目的〕
  • 車椅子障がい者への配慮

内部障がい

〔対応〕
  • 常勤時間での勤務

知的障がい

〔対応〕
  • ハカリを使用した、冊子、用紙の枚数確認
  • 自動テープカッターの使用

精神障がい

〔対応〕
  • サポーターの見守り及び上長、支援者面談
  • 就労定着支援システムを利用した
    日々の状況管理
  • 会合への参加免除
  • それぞれの状況に応じた業務上の配慮
    (業務調整や電話対応など)
〔目的〕
  • 出勤の安定化、定着、メンタル面で不調が発生しない為の配慮
創業者の
障がい者雇用へ
対する想い

 シャープ株式会社の障がい者雇用のはじまりは、第2次世界大戦終戦前の1944(昭和19)年に早川創業者がシャープ(当時:早川電機工業)に戦争で失明した軍人を雇用し、盲人用金属プレス加工ラインを設置したことからです。

 その後1950(昭和25)年に、当金属プレス加工ラインを独立させ、現在のシャープ特選工業(当時:合資会社 特選金属工場)を設立しました。この早川創業者の取り組みは、画期的な試みであり、日本における障がい者雇用の先駆者となっています。
 当時から早川創業者は、「障がい者自らが、自助自立をして働ける職場環境つくる」ということを使命としてこられました。
 その考え方は70年近く経った今でも障がい者雇用の在り方として普遍的であり、当社に引き継がれています。そして、障がい者と健常者が共に働く職場作りの礎となっています。

 その早川創業者の考え方、強い想いを表した文章が残されています。
 それは、創業者 早川徳次が初代会長を務めた「大阪府身体障害者雇用促進協会(1949年発足/現:一般社団法人 大阪府雇用開発協会)発行のH.E.C創刊号(1950年・昭和25年発刊)に創刊の挨拶として掲載されたものです。

 その内容を全文、下記にご紹介しますので、ぜひ、御一読ください。



創刊の挨拶


大阪府身体障害者雇用促進協議会
会長 早川 徳次

 長い間の懸案であった、身体障害者雇用促進協議会の会報がいよいよ創刊されるに至ったことは、不肖会長の職に選ばれた身にとって、こんな嬉しいことはない。

 この運動が軌道に乗り、更に本格的な段階に入る迄に払われた関係者各位の熱情に、まず深甚なる感謝を捧げたい。当会の名誉顧問として、欣然承諾を与えられた、赤間知事殿を始め、関係部課長の熱意と、或いは経済的援助に非常な同情を寄せられた府会の諸名士は申す迄もなく、多忙の中からひたすらこの事業の協力に砕心される職業安定課の方々、各安定所長、補導所長の御理解に対しては、常に感謝を新たにしている。

 明日の社会を明朗化するために前進する、平和と愛情の運動が成功する為には、官民協力の唯一路あるのみと、益々痛感するところである。

 誰も彼も、人間は幸福でありたい。幸福の限界が、よしその環境によって異なるとしても、喜怒哀楽の条件は、一つであろうと信じている。

 働き得る喜び、自由なき怒り、健康を失った哀しみ、家庭団らんの楽しさ等、人間生活の根底を流れるせんせんたる波動こそ、幸不幸バロメーターである。

 対座した青年に「あなたは幸福ですか?」と問うて見る。「ハイ元気で働いています。」と、すぐ答えが反応してきたら、こちらもどんなに幸せであろう。油染みた手の甲、真黒なほう髪、几帳面に揃えた膝頭もすり切れているが、なんとその顔は希望に輝いていることか。勤労の喜びが、職持つ安定感が、脈々として溢れるばかりである。

 私は思う。誰も彼も幸せであるためには、誰も彼も適職を持つということである。

 だがここに、身も心も健康ではあるが、局部的障害の為に職を持つことの出来ない一群の人々がある。この人達に、何の罪がある訳はなく、能力に常人との差異がある為でもない、ただ、世間の大部分から、差異があると信じられ誤解を受けている、気の毒な人々である。

 なんの罪もないこの人達だけが、適業を持つ自由を喪失して、幸福の世界から置き去りにされて好い筈がない。

 我々企業者の仲間にも、そう信じている多くの人々がある。少しの注意と断を以ってすれば、ここに潜在する優秀なる労働力が直ちに発見出来る。それは企業者としても嬉しい発見であり、事業に志す者の社会的責任でもある。

 私が、これに気付く機会を得、僅かながらも、体験を重ね得たことについては、神々に深く感謝している。それは、すなわち与えられた自分の天職の中から、相互救済の両立を、工夫出来たからである。

 勿論、これ等のことを受け入れるには、多少の勇気と工夫が入用である。

 私の工場では、最初八人の戦盲者を雇用する機会を持った。プレス作業である。

全然視界の絶えたこれ等の人々を、仕事と環境に慣れさせるために、私は、技術者と相談して色々の設備を改造した。

 まず、動力の一切を取り去り、足踏み又は手動ポンスに変え、檜造りの立派な仕事台を造り、これを固定して椅子や引き出しに細心の注意を払った。何よりも不測な怪我をしない為に安全装置を取付けた。他の従業員と速歩の喰い違いを避けるため、専用道路を作ったり、あらゆるものに点字を応用してこの人達の利便に供し、或いは精密な部品の感度を検査するための特別な音響測定器を考案した。

 神は二物を与えず、というが、人間が生きて行く上に必要な条件と、これを充足する反射感能は、常に一であるらしい。始めは私にも、一沫の不安が伴ったが、間もなくそれが杞憂であったことは証明された。この人達は異常な熱心さを以って、局部的不自由を補い新しい職業をたちまち自分達のものにした。むしろ能率は、常人を遥かに凌ぎ120%を超えてそれを維持しているものがあるという、不思議な現象を呈した。

 無理に誇張されているのではないだろうか、と反問される方々のために、以下少し、御説明をしてみよう。

 皆さんも御存知の様に、片手を失った方は、一方の片手が異常な発達を遂げて不自由を克服してくれる。失明された人にとっては、勝れた心眼が開け、指頭感覚が発達するのである。俗に「眼にも見えぬ仕事」と言われている細かいものを作る指頭作業においては、精神力の集結と、指頭の敏感な働きを必要とするため、開眼者よりも失明者の方が有利である。仕事以外に気が散らないともいえる。それに肉眼を補う皮膚の触覚が発達してくる。全盲の一人で私の工場の優秀労働者である、山本君は、入社当時は盲導犬を連れて歩いていたが、先年この愛犬を盗まれてしまい、全く途方に暮れてしまった。しかし彼は、長い間街を一人歩きした経験から、遂に先天的の失明者のように、杖一本で勇敢にどこへでも出て行く。皮膚感覚が発達してきたのである。曲がり角へ来ると風が方向を教えてくれる。勿論聴覚も正しく、騒音の中身を色別するのであろう。

 人生50年、我々はとにかく、無頓着に過ごして来るために、山河の起伏を見ながらしかも足元の高低を知らない。だが、失明された人々にとっては、一日の行程がことごとく注意の対象である。此処にも研究すべき一事がある。

 盲唖聾の三重苦を征服した、ヘレン・ケラー女史も、偉大であったが、私の側近に居る人々の中にも、失明と、片足大腿部切断の戦傷者や、片腕のない失明者が居る。

 最近、私が雑役の仕事に雇った、西川君という人は、震災で、左腕を負傷切断しているが、残った一本の腕で想像出来ない様な力技をやる。薪を割り、鋸を使い、炭を焼き、全く何不自由なく裕に二人分の仕事をやっていく。

 聾唖者の時山君は、倉庫の整理をやっているが、これまた、もっとも適応した能率を示し、文字通り黙々としてやっている、非常な力持ちである事も、雑役の西川君に匹敵する。

 これ等の人々は、いずれも当社の寮内に居住していて、妻帯者である。収入も、平均ベースを遥かに上回って、まあどうやら、経済不安の除外にあると思っている。

 この会の、副会長をやって居られる、大阪ダイヤモンドでも、沢山の聾唖者を使って居られるし、宮川製作所でも既に、この経験を積まれておられるが、いずれも、優秀なる労働力であることを証明されている。その他に、従来の会員は概ね経験を有しておられるのであるが、この運動を成功せしめるには、更に更に、沢山の共鳴者を得てあらゆる事業家の御理解を求めねばならない。

 国立、都立、府県立の補導所も全国に数多くあり、先日来、私も東京杉並の補導所や堺旭ヶ丘、それに守口の補導所等を行脚して見学させて貰ったが、所員の火の様な情熱によって、幾百千の障害者達が不幸のどん底から起ち上がっている姿は嬉しい限りである。ただ国立においては予算の関係からか、施設の貧困には、いささか失望を禁じ得ない。国家の台所が反映したような、うすら寒い施設の中で、如何に神の如き所員の熱意をもってしても、果たして立派な補導が可能であるか、国立なるが故に、いわゆる申し訳的であってはならないと、しみじみ苦言を呈したいところである。

 能力に差異がなくとも、一カ所でも不自由なところがある人々には、より明るさが必要である。

 私のところの特選工場では(これも、失明工場という名称を廃止したのは差別感を与えないためである)天井から壁まで明色を用い作業場には花を活け、専用道路には、ささやかながら花壇を作っている。

 失明者は、自分の組み立てたラジオを聴き、短歌を作り、駄句をひねって朗かである。能率の向上もこの精神状態において可能である。

 既に常人が100%であれば、身体障害者は120%の能率を上げ得るよう指導すべきであり、「私の処ではこの様な特徴を補導した」というレッテルをはって、ここに一般企業者の魅力を誘い理解を深めるべきである。絶対に常人に劣らない、否それ以上の高能率を上げ得る可能性は充分にあるのだ。この点は、補導所を始め、各指導者の方に御願いしたい。

 適性に対する受入設備が研究されれば、必ず不思議に近いこの状態は実現するということを、私は主張する。そして、「健康で五官に故障のない方でも、この時節に雇い難い…」と言うことは、まず間違った理論であることを、企業家の各位に呼びかけたい。

 ことに労働問題の次第にむずかしい時代に、身体障害者雇用の問題は多くの示唆を提供するであろう。

 この運動こそ、社会福祉と人類平和のために、国境を越えて掲げられる光明であると信じ、国民一人残らず名誉ある会員になられることを提唱して、御挨拶に代える。

1950年2月25日


アクセス




<本社>


住所: 〒545-0021 大阪府大阪市阿倍野区阪南町7丁目9番12号
交通機関: JR阪和線「鶴ケ丘駅」から徒歩約7分
: 大阪メトロ御堂筋線「西田辺駅」から徒歩約12分
TEL: 06-6694-3111(代表)
FAX: 06-6694-3113


<八尾事業所>


住所: 〒581-8585 大阪府八尾市北亀井町3丁目1番72号
  (シャープ株式会社 八尾事業所東ゾーン内)
交通機関: JR大和路線「久宝寺駅」から徒歩約15分
TEL: 06-6796-1577 / 06-6796-1579(第3生産課)


<堺事業所>

住所: 〒540-0908 大阪府堺市堺区匠町1番地
交通機関: ①地下鉄四つ橋線 住之江公園駅 3番出口    南海バス「住之江公園駅前」のりばより、
    匠町行き(91系統)に乗車し、終点「匠町」で下車(乗車時間 約13分)
  ②南海本線 堺駅    南海バス「堺駅西口」(2)のりばより、
    匠町行き(81、83、84系統)に乗車し、終点「匠町」で下車(乗車時間 約12分)
  ③南海高野線 堺東駅    南海バス「堺東駅前」(8)のりばより、
    匠町行き(81、85系統)に乗車し、終点「匠町」で下車(乗車時間 約23分)
  ④JR阪和線 堺市駅
    匠町行き(81、84、86系統)に乗車し、終点「匠町」で下車(乗車時間 約38分)
    「グリーンフロント堺」正門受付前より本社事務棟まで構内を徒歩約10分
TEL: 050-5433-1531